いももすのブログ

高校二年生が日記を書きながら書くブログ。

評論大嫌いくん

 本当にそうであろうか。

 

 というような言い回しを目にすると、「ああん?やるか?」とナイフを構えます。

 

 

 数週間前、学校で実力テストがありました。まぁ、結果としてはボロボロだったんですが、僕の成績のことはここではどうでもよくて、その時の「国語」に関するエピソードです。

 

 現代文の読解で佐々木敦の「未知との遭遇」という評論が出題されました。確か、センターにも出たとか出なかったとかいうやつです。「教えてあげるくん」などと調べたら出題範囲だけ出てくるので読んでみるのもいいと思うのですが、「未知との遭遇」そのものに関する話じゃなくて、試験後のクラスメイトの反応です。

 

「俺ああいうの嫌いなんだよなぁー、なんかネチネチネチネチさぁー」

 

 なるほど。

 

 まぁ、確かに印象としては「ネチネチネチネチ」だった。正直な感想をズバッと言ったー、言ったねー、こいつ。と思いました。

 

 

 今テスト期間なのでおべんきょうをしているのですが、福島憲成の「ドラえもんの大切なメッセージ」という評論をさっき解きました。筆者である福島氏が、藤子先生の逝去の直後に書いた文章。頭はこうです。

 

「子供のみならず大人にまで夢を与えた。本当にそうであろうか。」

 

「ああん?やるか?」

 

 相手の懐が怪しく光ったので、こちらもポケットに忍ばせたナイフに手を伸ばします。

 

 出題された箇所の内容を要約すると、「主体性のなく依存的性格の少年のび太ドラえもんに頼ってひみつ道具を使い結果的にその道具に振り回されてしまう様は、『便利』という言葉に惑わされてにわか仕立ての科学に頼りこれでもかと失敗を繰り返す現代文明の有様にそっくりではないか。藤子・F・不二雄氏はこれを痛烈に風刺したのである!ドラえもんの真の笑いは『風刺の笑い』なのだ!」というもの。

 

 僕はこの文章を読んだ時・・・というより、この文章はこの記事を書くきっかけになっただけですけど、この手の文章を読んだ時、謎の憤りみたいなものを感じちゃうんですよね。

 

 なんでだろうなー。ネチネチネチネチという形容もありっちゃありですが、もうちょい掘り下げてみないと、この感情の根本がわかんない気がします。

 

 要するに「本当にそうであろうか」という言葉から始まる文章は、「正論」なんですよ。本当にそうであろうか。違うだろ。本当はドラえもんは風刺の笑いだろ。笑えよ。という文章な訳です。少なくとも筆者の考える「正論」がここで展開されるわけで、その「正論」の押し付けがましさへの違和感・不快感や、「正論が人をキレさせることはいくらでもありますが 正論が人を救った例は有史以来一度も存在しませんわ!(ブチギレェェェェェェェェェ)」という、正論への素直な憤り。

 みんな正論は大嫌いだし、押し付けがましい正論はもっっっっっと大嫌いです。なぜなら・・・なぜ?正論が嫌われる理由。正論が嫌われるのは・・・えーっと、待ってくださいよ。

 

 正論が嫌われるのは、その「正論=至極正しい、もっともな意見と誰もが納得するほど至極正しい意見」によって自分の「触れられたくない場所(=俗に『地雷』)、絶対に曲げたくないもの」が軽々しく否定されることがたまらなく嫌だから、ではないでしょうか。今の所の僕の結論ですが・・・。

 

 で、その嫌われ者の正論が「やぁやぁ、正論だぜぇー」ってな具合でナイフで刺してきたらそりゃあ憤りは感じるわけです。

 

 で、これは「ドラえもんの大切なメッセージ」に対してだけの話ですが、この「ドラえもんの大切なメッセージ」で取り上げられているのは、多くの日本人にとって何かしらの思い入れがあるであろう「ドラえもん」です。ドラえもんに対する心の色々で「曲げたくないもの、触れられたくないもの」がある人も多いでしょう。大切な思い出ですから。心の奥にしまい込んでおきましょう。

 「本当にそうであろうか?」を挨拶にそこに土足で上がり込んできてナイフでザックザクしてくるのがこの文章です。ここに書かれている「藤子先生は皮肉・風刺をペンに乗せてドラえもんを描いたんだ」ということが正論で、真実であったとしても、その真実がどれほどの人の夢と笑いとを壊すか、ということです。

 あと、この出題箇所だけを読むと、本当に藤子先生が「風刺の精神」で二十数年ドラえもんを描き続けたのかってところも・・・まぁ微妙に疑問が残るところ(根拠に乏しい)ではありましたし・・・。

 

 中2後半あたりから、このような「本質、正論、そこ踏むな」な評論文が出題されることが圧倒的に増えた気がします。ありきたりな言い方になりますが、問題集に載っているもしくはテストに出題されるような文章は、いろいろな文章を読んで見識を深めた大人たちが未来の社会を生きる学生どもに読ませたい文章なはずなんですよ。

 ・・・なるほど。

 

 

 ここまで言っといてなんですが、いや、ここまで言ったから言いますが、前述の「ネチネチネチネチさぁー」を聞いた時、「正直だなー」の他に「本質から逃げるなっての」という感情が微かにチラついたことも覚えています。つまり、評論を書く人たちの頭の中はこれだと思います。

「正論、本質から逃げてんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇ」

 本質を考え、理解した上で生きるべきだ、という思考です。言うでしょう。「物事の本質を見極める力」です。目に見える色々について考え、その本当のところをみるんだ。ひみつ道具でのドタバタ劇を楽しむのではなく、その奥にある(であろう)真のメッセージ「文明社会への警鐘」を読み取るんだ・・・。ということです。

 実際もしかしたら福島氏は本質を見極めて正論を言える人間なのかもしれない。佐々木氏の文章も、間違っちゃいないどころかどっからどう読んでも「至極真っ当」なわけで、そういう意味で、評論を書ける人間というのは「本質を見極められる人」だと思うのです。

 

 わかる。「本質を見極め、そこから逃げるな」この考え方は大いにわかる。なぜならば僕もここ1年くらいその考え方に傾倒していたから。なんか見聞きするたびに「ホウ、だが、本当にそうであろうか。この物事の本質って結局のところ云々」と。

 だるかったです。

 考えることは楽しかったけれども、めちゃくちゃ斜めの捉え方になって疲れちまったのが僕の結果でした。

 

 評論文というのは僕が思うにその「斜めに捉えて見えた世界」をお前にも見せてやろう、ってことだと僕は思うんですよ。や、やめろー。俺をうつし世に戻らせてくれー。いやいや、これが本当の世界です。ってなものだと思うんですよ。だから読んでて疲れるし、押し付けがましさに苛立ちを覚えてしまうんですねー。(でもそれってあなたの感想ですよね?)うるせぇ。

 

 でも、クラスメイトに「逃げんな」と微かに思ってしまったのは、「本質見ろ」の考え方が抜けきってなかったがゆえだったのでしょうね。悪かぁないが気をつけたい。

 

 

 というわけで、以上、テスト勉強をすっぽかして書いた「僕は正論=評論が大嫌い!」の話でした。

 

 

<追記>

 特にここにおいては「テスト・問題集に出題される評論文」の話をしていて、問題を解く以上、必ず「正論」を見なければいけない構造になっています(読むことを強いる構造になっています?)。きついです。